病んだ子どもへの治療的アプローチを

弁護士  坪 井 節 子


 少年による深刻な事件がまた起きてしまいました。どこにでもいる、真面目な子どもたちによる犯罪に、世間は衝撃を受けています。そしてどうしていいかわからないとい不安にかられて、また少年法の「改正」をというような議論に走ろうとしているかのようです。
 こんな時に浮き足立つことなく、冷静に事態を見つめ、本当になすべきことがなんであるかを、是非ご一緒に考えていただきたいと思い、次のような意見をお送りします。
 ご一読いただければ幸いです。

子どもたちは病んでいる

 私は、「少年が凶悪化している」という認識では、なんの展望も見えてこないと思っています。
 最近強く感じるのは、「子どもたちが病んでいる」ということです。どこまでが健やかで、どこからが病んでいるというのかという線引きは難しいことですが、少なくとも、こうした事件を起こす子どもたちが、人間らしさを失って、病んでいるという印象は否めません。人間らしさ、つまり自分を大切に思い、人も大切に思い、共に生きていこうと努めるということ、人間のその根源的な部分を病んでしまっているということなのです。それは必ずしも精神病と診断される形で現れるとは限りません。育ちの過程の中で、人間としての尊厳を保障されてこなかったということが、人間としての根源の部分を腐らせ、病ませてしまったということなのです。
 子どもたちの犯罪は、この病の重篤な発症だと思います。大人の場合でも、同様のことはいえますが、大人はもっと積極的に悪を選択するという例も見られます。しかし子どもの罪は、常にこの病の結果だと思えてなりません。

治療的アプローチの必要性

 病んだ人に必要なのは、治療です。非行少年に必要とされているのは、「治療的アプローチ」だと思います。病んだ子どもを隔離し、厳罰に処するという形で痛めつけたら何が起きるか、これは明らかです。病がもっともっと深刻になるだけです。
 人間の根源的な部分を病んで、自分を肯定できず、人の命も大切に思えず、人間への信頼を失ってしまっているかのように見える子どもたち。その子どもたちの根源的病を癒すことなしには、子ども自身の生きなおしも、社会の安全も実現しないのです。
 だから必要なのは、治療的アプローチです。それは、その子どもたちが理解できる言葉を使って、一対一の関係で人間への信頼を回復させたいと願う人間が語りかけ、また彼らの言葉に耳を傾けるという作業からしか始まらないと思います。治療の場は、彼らが安心して自分を顧み、自分を語れる場でなければならないでしょう。
 少年法は、みごとにこの治療的アプローチを可能にする制度です。鑑別所技官、家庭裁判所調査官、付添人、そして裁判官という人的資源。少年鑑別所、審判廷という場。また処遇の過程での少年院の教官や保護司による、教育的、福祉的働きかけ。問題があるとすれば、この制度をになう大人たちの力不足、運用の怠慢なのです。制度自体の問題とはいえないのです。
 深刻な事件が起きれば起きるほど、子どもの病が深刻になっているということを示します。治療的アプローチの必要性は、急激に高まっていると思います。

刑罰による責任をとらせるべきか

 責任はとらせなくていいのかという声が、必ず聞こえます。罪の深さを知り、悔悟の念を持ち、被害者に心の底から謝罪して、再犯に陥らないことを決意するという意味での責任は、何としてもとってもらわなければならないと思います。ただそれは、病んだ子どもたちへの刑罰によっては、決して得られないのです。治療的アプローチの成果としてのみ、到達できるものです。
 しかし体も大人と同じ、やることも大人と同じ、それなのに刑罰だけは課されないというのはおかしいという声に対しては、わかりやすい反対根拠を挙げたいと思います。もし大人と同じ形で責任をとれというのであれば、大人と同じだけの社会的権利を認めなければおかしいということです。政治への参加についても、経済活動についても、結婚や妊娠についても、大人と同様の社会人として、子どもを認められますかと問いたいと思います。
そうしたことになると、子どもにはまだまかせられない、子どもはまだ未熟だと逃げ腰になるのではないでしょうか。そうであれば、やはり子どもの行動の責任は、大人と同じ形で取らせることはできないということにならないでしょうか。
 私は、成人年齢を18歳に引き下げるということは、考えてもいいのではないかと考え始めています。18歳になれば、親権による制約も保護も受けず、参政権も持ち、社会における責任を自覚して生きていくということはできるのではないかと思うのです。そうであれば、少年法も18歳以上の人の犯罪には適用されなくなります。本人も社会も、成人ということの意味を、もう一度吟味し、真剣に考えていかなければならない時期にきていると思います。
 ただ念の為補足しておきますが、少年法には、16歳以上の少年については、大人と同様の刑事裁判を受ける「逆送」という手続きがあります。今回の17歳の少年が起こした事件では、恐らく逆送手続きがとられるでしょう。したがって、これらの少年は刑事処罰を受ける可能性が大きいと思われます。

子どもたちの病の原因
 
 少年法が非行予防のための法律ではないということも、もう一度強調しておかなければならないと思います。非行少年への治療的アプローチをめざす少年法は、病を根源から癒して再発を防ぐことを目的としているのであって、非行予備軍の子どもたちへの予防対策としては直接効果を発揮するものではないのです。
 予防対策のためには、非行の原因を知ることが重要です。つまり、子どもたちを病ませているのは誰か、何か。それは、子どもたちに子ども時代を保障できなくしてしまった家庭、学校、地域、マスコミ、商業主義。子どもたちが、人間らしさを思う存分堪能できる時間、つまり十分愛され、自分を表現でき、自然とたわむれることができ、友だちと遊びまわることができる時間、大人たちの金銭欲や権力欲にまみれた社会に直接巻きこまれることのない空間、それを保障できなくなった、保障することの大切さを自覚しなくなった大人たち。そして苦しみ悩む子どもたちを直視せず、助けを求める声に耳を貸さず、子どもを見捨ててきた大人たち。それ以外に原因が考えられるでしょうか。

非行予防のための緊急策は

 では非行を予防するためにはどうしたらいいのか。根本的には、大人が人間らしさを回復して、子どもと共に生きようとうする姿勢を取り戻すことしかないと思います。
 ですが緊急策としては、病んだ子どもたちが重症の犯罪行動を発症する前に、苦しい、痛いと言う前兆の段階で、そのSOSを受けとめられる大人を、きちんと子どもの傍に配置しておくということでしょう。親、教師、スクールカウンセラー、警察、児童相談所、主任児童委員、子どもの人権擁護委員、どこも役割を果たせないとしたら、絶対に子どもの声を聞き逃さず、見捨てない、すぐに解決ができなくても子どもと一緒に踏みとどまるという覚悟を持った人、子どものオンブズパースンを、NGOと行政の協力によって生み出すことを考えなければならないのではないでしょうか。
 子どもの尊厳を盾として子どもの側に立てる大人たちが、子どもたちの生き辛さを一緒にになう決意をして、子どもたちと一緒に歩いていくことができれば、世の中の大人たちの姿勢を、少しずつ変えていけると思います。大人たちの姿勢、子どもへのまなざしが変わっていけば、子どもは病むこともなくなるでしょうし、病んでも深刻にならないうちに救われると思います。

少年法「改正」法案では何も解決しない

 真剣に子どもの非行問題を考えようとするなら、審判構造に手をいれるだけの無責任な少年法「改正」でお茶を濁すことはできないはずです。子どもの病から逃げず、直視し、その辛さを共にになっていただきたいと切にお願いいたします。


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