度重なる少年犯罪 子供をどう育てるか 3/3
6件の加害・被害少年犯罪を担当するなかでみえてきたもの (2000.6.1)
弁護士 毛 利 正 道
6、子供らをどう育てるか その1.子供をまるごと認める
次に、親・教師・地域に住む者として、子供らをどう育てたらよいのか、どういう点に話を進めます。まず最初に言いたいことは、どの子供についても子供を無条件で100%、その存在を認めてほしいということです。這えば立て、たてば歩ゆめの親心とは昔からの言葉ですが、私はあえて、這わなくても、立たなくても、歩まなくてもまるごと愛してほしい、そう言いたい。ますますひどくなる競争教育のなかでは難しいかもしません。そこで私は、30歳成人説を言いたい。これは、私がここ1年ほど言っていることですが、30歳までに大人になればいいという気持ちで、子供らに接してほしい、ということなんです。昔は、15歳で元服、大人になりましたが、50歳が平均寿命でした。今は、大人になるまでにたくさんのことを身に付けなければなりませんし、85歳が平均寿命になっています。30歳までに大人になればいい、本当にそう思えれば、心に大きなゆとりをもって子供らに接することができるはずです。
7、その2.いのちの大切さを子供に真剣に伝える
この点については、すでにお話ししましたので繰り返しません。ただ、子供に話すときにどのように話すのか、ということについて一言だけ。子供らに話すとき、意見を言うのではなく、自分自身の体験や体験に基づく感動を話してほしい。自分が子供のとき何に感動したのか、大人になって何に喜び何を怒ってきたのか、そういう話をしてみてください。もしそれでも子供らが話を聞いてくれないようなら、ときどき、そのような内容の手紙を、子供らの部屋においでください。子供らは必ず読みます。今、親子のコミュニケーションができない、と嘆く声かよく聞かれますが、そんなことはありません。私も、自分の子供に何度も手紙を書いたことがあります。その時はわかりませんでしたが、後になって、よく読んでくれていたんだなとわかったことが何度かあります。大人が真剣に子供に接しようとすれば、方法はいくらでもあるのです。
8、その3.周囲の現実・仮想現実の暴力をやめさせる
子供らの周りの現実の暴力を自らやめてください。周りの暴力をやめさせてください。暴力はなぜいけないか。私が今から8年前、当時中学1年の私の長男が弟をいじめているのをやめさせようとして、彼に暴力をふるったとき、謝るために書いて渡した手紙にはこうあります。「暴力はなぜいけないか。暴力は言葉で相手からよくわかってもらおうということではなく、相手をちからでねじふせ、服従させようとするものだ。しかし、人間は皆平等であって、たとえ親子であっても、自分以外の者を力で服従させる権利はない。また、人間は、力がまかり通る昔の人間の世界を克服して、人間同士が互いに尊重しあって、豊かで文化的な社会を作ろうと努力しているのだ。この点でも暴力は決して許されないことだ。小さい時から数えれば、00君には何回も暴力を振るってきた。本当にすまないと思っている。本当に悪かった」とあります。私の子供への暴力はこのときで終わりました。
また、暴力というのは人を傷つけることであり、人の命を奪うこともあります。殺すつもりはなくても、命を奪うという取り返しのつかない結果が生ずることがあるのです。現に、昨年近くであったケースでは、たった一発殴っただけで相手が死んでしまったのです。私が担当した三件の集団リンチ事件でも、加害者の全員が殺すつもりはなかったと供述しているのに、三人の命を奪う結果を作り出しているのです。私が付き添い人となった少年の一人は、「一発、二発なら大丈夫とか、そんな保証はないです。一発殴って打ちどころが悪ければそれだけで死んでしまうこともあるんです。本当に恐ろしいことです。生きるか死ぬか、本当にきわどいっていうか、すごい微妙だと思います。俺は、今までこんなに深く考えたことはなかったです」と書いています。
さらに、日本は世界に誇る憲法第9条を持っている国です。憲法9条は、一切の戦争を否定しています。戦争とは暴力の最大のものですから、憲法は、この日本を非暴力を貫く国とすることを求めているのです。むろん、非戦を貫くということは並大抵のことではありません。日本と同じく軍隊を持つことを憲法で禁止している、中南米のコスタリカという国では、自国が戦争に決して巻き込まれることのないように、自国とよその国との関係だけでなく、他国と他国の関係を改善するためにも懸命の外交努力を数10年続けてきています。このように本来、世界に誇れる非戦非暴力の憲法を持っている日本ですから、非暴力を貫く社会を目指しましよう。
これまで述べた三点の課題、すなわち1.子供をまるごと認めること、2.いのちの重みを真剣に子供らに伝えること、3.周りの現実の暴力をなくすこと、この三点は、誰でもいつでもできることです。その意味では、緊急の国民的課題として実践していく必要があると思います。
次の暴力に満ちたバーチャルリアリティの世界を克服していく課題です。ここで大切なことは、大人が実際に子供たちのやっているテレビやゲームに接してみて、そのひどさを実感して頂くことです。そのうえで、周りの子供らと話し合ってみてください。そして、その実感をそのまま、テレビ局やゲームメーカーに次々と日本全国から送っていく、このことが大切です。そして自主的に規律を確立する方向にリードすべきです。
9、その4.子供社会で成長する機会を保障する
今の子供たちが育つプロセスを見ていますと、両親、特に母親との関係、そしてテレビやゲームとの関係にとても太い線があり、おおぜいの子供たちや地域の中て育っていくという場面がほんのわずかしかありません。私は、昭和24年に田舎で生まれ育ちましたが、よちよち歩きを始めたころから集落の中にある神社に行って、大きな子も小さな子も、男の子も女の子も大勢で、野球・石蹴り・釘差し・鬼ごっこ・探検などわいわいがやがや、暗くなるまで毎日、遊んでいました。小さな怪我もよくしていました。そのような中で、小さな子は大きな子に教えられ、大きな子は小さな子の面傷を見る中で自立心や責任感などが形成されていったように思います。しかし、現在は、よちよち歩きの子があちこち出歩くなど、車が危なくてとてもてきません。そのため、自然に子供社会を形成することは不可能になっています。
この点、ヨーロッパでは戦後、社会福祉事業のひとつとして、冒険遊び場があちこちに作られているとのことです。これを報道した今年5月9日付の信濃毎日新聞によりますと、日本でも現在準備中を含めて、全国65カ所にあるそうです。世田谷の区立公園の一部3,000平方メートルに昭和54年に冒険遊び場ができました。自然の傾斜地の中で、小中学生から高校生、時には大人まで遊びに来て、一切の禁止事項なしに自分の責任で自由に遊んでいます。焚き火・木のぼり・刃物を使った工作・空中綱渡り・釘差しなどみんなで、常勤の二人のプレイリーダーのサポートのもと、夜9時すぎまでいることもあるとのことです。この冒険遊び場の制度は、国も有効性を認めて後押しをする構えだということですが、各自治体でも、もっと小さく各自治会や区単位でも作ることができます。せめて、各小学校単位にひとつは欲しいですね。
現代に子供社会がないということは、片面からみますと、親が特に母親が、子供を一から十まで育てなければならないということになります。昔は、子供集団やその子供の親たちから育てられる面が強かったのですが、今ではこのような機能がなくなっているため、子育ての負担がすべて親にかかってきています。そのため、親にとっては、この競争教育に耐えられるように自分の子をすべて自分の責任で短期間に育て上げなければならず、ものすごいプレッシャーになっているわけです。最近急増している児童虐待の原因のひとつだと思います。この点でも、子供社会の中で子供がたくましく育つ場を大人が作り出す責任があると思います。
10、その5.競争教育を克服して共生教育に
この点は、多くの識者が語っていることですので、多くを言いません。ただ、今の文部省の考えは、個性の尊重という言葉を前面に出し、できる子はできる子なりに、そうでない子はそれなりに個性を尊重して教育をしていくというものであり、そのため、学校の中にいくつものコースがあり、また地域の中にもたくさんの学校の数だけのコースがあることになります。しかし、そこで学び生活している子供たちにとっては、ひとりひとりのコースが外から見えるように全部分かれているということになって、子供に与えるプレッシャーはものすごいものがあります。できのよい子はいつ下の別のコースに落とされるかわからないというすごい不安感を抱えており、できのよくない子はどうせおれはだめだという、すごい劣等感を抱いています。子供に与えるプレッシャーがますます大きくなっているという実感です。バスジヤック事件の少年も、愛知県豊川の少年も二人とも優等生だったということは決して偶然ではないと思います。
いわゆる5教科が得意な子・それ以外の教科が得意な子・障害を持っている子・外国人の子供・とても強い子・とても優しい子などいろいろな子供たちが、金子みすずの言うように「みんな違って、みんないい」という感じで、ともに支え合いながら育ちあう、そのような共生教育がどうしても必要です。他の人を蹴落として蹴落としていかなければ負けてしまう、そのような強者の論理は、克服されなければなりません。
11、子供らは甘やかされるから犯罪を犯すのか
よく、甘やかして育てたから犯罪を犯すのだ、もっと厳しく育てるという人がいます。とんでもありません。先に見たように体罰や暴力で育てられた少年が犯罪を犯すのです。そのようにいえば言うほど、子供たちや一人ぽっちの親たちを追い込んでしまい、少年犯罪がますます増える、私は本また、少年法を改正して大人と同じように厳しく処罰せよという声もあります。私も、今の少年法制が完璧だとは思いません。特に、被害者の権利がほとんど保障されていませんし、また、少年の更生を図るプロセスが不十分だと思います。自分と他者の命や権利を大切にすることを正面から教えることや、被害者や地域の人たちの生の声をきちんと少年に伝えて真の自覚と反省を促すことなど不十分な点が少なくありません。しかし、少年を大人と同じように処罰すれば、少年犯罪が少なくなるとは思ません。むしろ、今の子供をめぐる状況をそのままにして処罰だけ重くずれは、オウム真理教の麻原彰晃のように、ヒーローになるような気持ちで重大犯罪を犯す少年が増える可能性すらあります。少年にとって、犯罪は自己表現=自己実現の場となっていることをよく考える必要があります。なにしろ、「人殺し経験をしたかった」と言って、豊川の主婦を殺害した少年にとっては、他人の命など大切ではなかったのですが、これまで見てきたようにそのような少年は、自分の命もまた大事だとは思ってないのです。そのような少年に、重罪や死刑を課すから犯行を思い止まれと言っても聞く耳を持つはずがありません。また、あまりに長く少年を隔離しておくと、社会に出てきてもめまぐるしく変わっているためうまく適応できずに、再び犯罪を犯してしまう恐れがあります。このこともよく考えていただきたいと思います。
最後に、バスジヤック事件で母親を殺された塚本さん(43歳)が、「警察の遺体安置所で、母の喉仏の下にある五センチくらいのサシ傷が目に入り、母に起こった残酷な出来事が僕の心に刻み付いています。僕は絶句し、涙があふれ出てきました」と振り返りつつも、少年法改正論議についてつぎのように述べていることを、かみしめたいと思います。「刑罰を重くすれば、一時的には抑止力になるかも分かりませんが、犯罪を起こす根本はくすぶったままです。社会全体の構造の中で少年を犯罪に走らせているのであって、子供たちが親たちの犠牲になってはいなかったのか、こそ問うべきです。人間としてのものの判断をする元じめになる力が育っていないで、「いい大学、いい会社」へと子供を追いたてる受験だけの能力をつけても、人間の心を持った子供は育たないのです。10年、20年を見通して子供たちの置かれている教育環境を考えるべきです。
これで終わります。長時間ありがとうございました。(終わり)
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