−少年法改正より大事なものは何か−

元家裁調査官 野口のぶ子


 国会周辺はそろそろ解散モードかという矢先、自民党の議員の方たちから少年法改正案の成立を目指そうとの動きが出てきたとの情報にまず驚きました。驚いた理由は、子どもたちの未来にかかわる問題については、何事も百年の大計の中で論じられなければならない筈だからです。ましてこんなにも重要な法案が、議員の方たちの足が地につかない状態の中で審議されるかもしれないということは決してあってはならない無謀な行為であり、大人の無責任さをさらけ出すものにほかならないからです。

 私が、2度びっくりしたのは、この時期に少年法審議が浮上するきっかけになったのはどうも名古屋で起きた中学生の恐喝事件らしいということです。この事件については、マスコミの情報の範囲内でしか知ることはできませんが、こんなにも「子どもの問題にはつまるところ、大人の問題である」ということを象徴しているケースはないと思います。
 学校も警察も、口を揃えて「被害者少年が真実を語ってくれなかったから、手の付けようがなかった」と答えています。
 子どもの心理は、いじめや非行の渦中にある少年たちを多少でも知る人であれば、「子どもが真実を語らず、口を開かない」ときは、置かれた状況がより深刻であることを、また被害少年と相対した専門機関の人たちが、いずれも被害少年から真実の声を聞き出せなかったことは、被害少年にとっては、いずれの機関も「無限地獄から自分を救いだしてくれる信頼に足る人たち」とは映らなかったことを意味していることに気がつかなければなりません。
 被害少年に信頼されない大人たち、これこそがまさに今日憂うべき重篤な状況をあちこちで生み出している諸悪の根源なのです。何も専門機関の大人たちのみではありません。報道で見るかぎり、名古屋の加害少年たちは、思いっきり派手派手に振る舞っています。(これこそが非行少年といえるのですが)9カ月間もの間、彼らの尋常でない振る舞いを目のあたりにした大人たちはおそらく何千何百といた筈です。少年たち自身のために、地域社会全体のために、彼らの行動を抑止しなくてはと考えた人は誰一人いなかったのでしょうか。自分が直接かかわることは無理でもそれこそ関係機関に通報するという方法がある筈です。もし誰一人その行動をとった人がいなかったとすれば、それは放置ではなくて加害・被害少年共々、地域から見捨てられていたということだと思います。

 さて本題に戻りますが、このたびの少年法改正案は、上述のような少年たちを取り巻く環境の、目を覆うばかりの惨状をいくらかでも改正するという方向を打ち出してくるのでしょうか。私がもっとも危惧するのは、今回の改正案が子どもの都合ではなく、専ら捜査機関や、審理期間の大人側の都合が最優先された内容になっていることです。
 改正案が名古屋の事件に適用された場合を仮に想定してみましょう。少年たちは放置されるだけ放置され、傷口を広げるだけ広げ、さていよいよ立件されたとなれば、今度は前代未聞の凶悪事件として捜査段階から審判場面まで、検察官の厳しい追及を受けるということになるでしょう。立件までの関係機関の怠慢、無責任は糊塗されるに違いありません。今まで傍観者を決めこんでいった地域社会の大人たちも、一転して(審判は非公開であっても)検察官の役割に便乗する形で少年たちを非難攻撃する立場に回ることは容易に予想されます。少年たちの立ち直りの促進、大人たちへの信頼感の回復は望むべくもないのでしょうか。少年審判が少年たちの立ち直りに機能するのは、まず、「少年たちに信頼される審判であること」です。

 議員の先生方には少年法をあれこれ考えられるより先に、あらゆる領域で、子どもに信頼される大人がどんどん輩出するような施策を次々断行されることではないでしょうか。子どもから寄せられる信頼感こそが、子どもを育む力の源となるのですから。