「少年法改正」案国会審議入りにあたって訴えます!

元教護院職員 池口 紀夫


 昨今、重大な少年事件が報道されるたびに、今日の非行少年は凶悪化しており、彼らが犯した非行事実を逃さず糾明し、非行事実に応じた厳しい処分を科すべきであるといった、当事者とははるかに離れた共感性も責任感もない観客席からの声や一部のマスコミの声に呼応するかのように「少年法改正」案が審議されようとしております。このような事態の理解は少年たちの非行からの克服への努力を共にしてきた地域の現場からみると、あまりにも理解が不正確で、非行理解が浅薄で、事態を何ら改善させるどころかむしろ悪化させるといわざるを得ません。少年法を「改正」すれば、非行事実が減少するというのはまったくの錯覚であり、案を作成する方々も本当はそうは考えていらっしゃらないでしょう。

 なぜなら、「非行少年をただ断罪する」のでは何ら社会の責任も進展もなく、時代錯誤そのものだからです。政治の役割は犯罪から社会の安全を守るだけではなく、少年一人一人の「健全な育成」を図ることによって非行少年の再生を図るという、その両方の責任を果たしていくことにあります。少年の非行事実に相応しい厳しい処分によって「犯した責任を自覚せよ」というのは、非行事実の克服への道筋とはならない無縁の発言です。それは単なる「応報刑」の考え方であり、明治三十三年以前の社会に戻ることになります。我が国においては明治三十三年の「感化法」制定以来、「少年非行は充分な保護を受けられなかった結果であり、その更生は教育をもって為す」という考え方にたち、その教育主義に立って、その立ち直りの実践に私たちはあたってきたのです。

 私も近所を荒らして迷惑をかけたこどもと共に、住民の方々にバットや棒を持って取り囲まれたことがあります。私がいなければこの少年はバットで殴られていたでしょう。住民の方々は私に、“こいつを始末しろ!”と要求されました。つまり、この地域から隔離して、遠いところの鍵のかかるところに入れろ!ということです。厳しい罰を科せ!ということです。私は地べたに頭を下げ、この少年の犯した罪は私の責任であり、なんとしても彼の立ち直りを図らせてほしいと必至でお願いをして、被害に対する保障を考えながら任せていただいたことがあります。何故なら、そこで少年を「消した」のでは、少年の「謝罪」も「反省」も「立ち直りへの責任」も消してしまうからであり、何よりも欠落してしまうのは、他人に迷惑をかけるという危機に陥っている少年に対する「大人の、かつ公的な(社会)責任」を消し去ることになるのです。それは、結果として、単に、被害者の方々の報復感情が満たされた私刑(リンチ)を公的な形に置き換えただけになってしまうからです。つまり、事件を「処理」しただけにすぎないのです。

 その間に入って、被害者の方々への保障や回復と少年の立ち直りの両方を成立させることこそ政治、行政、専門家の役割であり、私たちが戦後選んだこどもに対する社会のあり方なのではないでしょうか。そうでなければ、政治や私たちの実践は必要のないものです。住民の方々に謝罪し、保障をした上で私たちがしなければならないことは、「何をやったんだ」という事実の糾明ではありません。こどもの立場に立った実践者はそのような愚かなことはしません。「どうしたのだ」と問いながら、なぜ彼が非行という危機的な状態に追い込まれていったのかを、その気持ちと背景となる状況をしっかり聞き取り理解し、その危機性を全身で向き合って受け止めることをするのです。その上で、「非行」を乗り越えていく方向を共に考え、乗り越えていることを要求し、励まし、教え、共に努力することを伝えるのです。そのような関わりをした上で、はじめて自分が犯した非行事実を勇気を持って向き合うことを求めながら、事実の聞き取りをしていくのです。「何をやったんだ」では彼等と共に生き支える大人ではありません。そして、鍵で閉じこめるのではなく、私との関係の中で彼を非行に走らせないように心の鍵を掛けることです。同時に、彼を非行という行動に追いやった心の深い傷からくる「イライラ」「暴力性」「怒り」「反抗」「閉じこもり」「訴え」「不安」「甘え」などをしっかりと受けとめることです。威嚇したり、説教したり、脅したり、罰を与えたりする指導をすることでは、一時的に職員が期待するような「真面目な」姿を示すことはあったとしても、決して彼等は変わらないのです。彼等の内側にある「つらさ」を大人が背負うことなしには彼等が立直ることは絶対にありえないのです。加害者たる非行少年の被害性(社会や大人による)を責任を持って受けとめ、そのことによって彼等の大人への不信を癒し、自己への絶望感を癒していくことなしには「立ち直り」はありえません。彼らを背負っている現場の専門家や市民はみんなそうしているのです。

 彼等がなんとかしてくれ!と訴えたその時に、その場で責任を持って必ず応える大人、社会が今最も必要なのです。問題の所在を少年法の「改正」にもっていくのは本末転倒であり、的外れです。彼等の「苦しさ」を背負って共に歩いてください。