少年法改正に想う
家裁の補導委託先「憩いの家」職員 三好洋子
憩いの家とは
憩いの家は、規則をできるだけ少なく、約束事を中心に暮らしています。規則が少ない理由は、考える力と判断する力を養ってほしいという思いと、うちに来るまで生きて来た時間が全く違うという点で規則にしてしまうには無理があり、一人ずつが違うというやりとりを大切にしたいと思うからです。半年から一年前後一緒に暮らした後、アパートや会社の寮に独立していきます。中には半年を待たずに少年院に行く子もいます。一度関わったらこちらからは関わりを切らないことを基本にしています。十年前うちに来た子とは十年のつきあいが、二十年前うちに来た子とは二十年の付き合いが続いています。三回以上復活した子は半数以上います。子ども達がうちを出た後、問題にぶつかった時、相談に来てくれることを望んでいます。
一度目の暮らしのポイントは、うちを出た後困った時、生きることに迷った時、相談に来れるだけの関係が作れるかどうかにかかっています。しかし子どもたちの気持ちを“わかっていたい”という思いと社会で生きていくために必要なことを要求することは別です。激しいぶつかり合いもしばしばです。時には怒鳴り合いの大ゲンカになることもあります。社会に対してどんなにえこひいきをしてもフェアにはなり得ない中で生きてこざるを得なかった子ども達と「一緒に暮らす」ことを大切に考えている所以です。
憩いの家にくるこどもたち・・非行とは
うちにやって来る子ども達は、苦しみを苦しみとして申告できないまま、しようとしないまま辿り着く場合が殆どです。非行もその現れです。22年間一緒に暮らした170人近い子ども達の大半が非行に関係しています。家庭がある無いに拘わらず、物心付いたときから納得し難い体験ばかりを繰り返し、私たちの想像をはるかに越える過酷さの中で生きて来なければならなかった子ども達、私にとって子どもと関わるということは、子ども自身が見失いかけている自尊心に、棄てかけている自尊感情にノックし続けることでもあるのです。
子どもの問題として反抗的だったり、大人への不信感が強いことをあげられることがあります。考えてみると「反抗」は必要な発達のプロセスであり、「不信感」の量は、信頼したいことへの思いの強さに思われてなりません。
子ども達と暮らしていると思いがけないトラブルや、周囲が振り回されて理解に苦しむトラブルがよく起こります。そんな時“何故この子はこんなトラブルを起こす必要があったのかな、何の必要があってわたしはこのトラブルに立ち会うことになったのかな”と考えることにしています。必ずあるはずの訳を知りたいと思い、ゆっくりと時間をかけます。するとこの子にとってはとても大切な時間であり、成長のプロセスだったということによく気づかされます。子どもの持つ弱さや脆さに私自身の脆弱性を映し出されることがあります。どんなに理解しがたい行為であっても、同じ人間である以上私の中にも起こり得ることなのだと思います。憩いの家で子ども達と暮らしていると「時間は必要に応じて流れる」ことを痛感することが多いのです。
語弊があるかもしれませんが、うちに来る子ども達を見ていると非行も成長のプロセスに思えてなりません。心に抱え切れないほどの寂しさや哀しみや無念さや辛さを持て余した結果うちにやって来るのです。ようこそ我が家へ、と思います。凄まじい生活の始まりです。人の心を真に理解することなどあり得ないことだと思います。それでも何故この子が非行に至ったのか、その訳を感じていたいと心から思います。“この人と結婚をして幸せになろう、子どもが生まれたらいい家庭にしよう”そんな思いとは逆に離婚しなければならなかったり、子どもが鑑別所、少年院に行くことになったり、思い通りにならないというよりも、望んだこととは逆の方向に事態が動いてしまうという両親の苦しみ、両親が苦しんだ結果子ども達が心に深い傷を負い、加害者という立場に立たざるを得なかった不幸に心が痛みます。その苦しみが悲しみに変わるまで、心だけは傍らに在りたいと思うのです。
入居までの子どもと・・「心の扉には内側しか取っ手はない」
入居に関しては手間と暇をかけます。入居依頼があると、全国どこへでも子どものいる場所に出掛けて行きます。そこで気の済むまで面接をします。そして憩いの家に二泊してもらいます。その上で入居するかしないかはその子に決めてもらいます。泊まりに来ることが出来ないのが国立教護院、鑑別所、少年院に入居中の子どもです。初めて会う子ども達はみな緊張しています。その中でも鑑別所で会う子の緊張の質は少し違うように思います。悪いことをした結果鑑別所にいることへの罪悪感と審判を控えた不安はどの子にも隠せません。重い事件を起こしてしまった子や、事件そのものよりも大変な生い立ちの子は、なかなか口を開いてくれません。学生時代に尊敬する先生から何度も言われた「心の扉には内側にしか取っ手はない。心は開くものではなく開かれるもの」という言葉を思い知ることになります。心に曇りはないか、濁りはないかを厳しく問われるものがあります。“心を閉ざすことで必死に自分を守ってきたんだな”と胸のふさがる思いをすることがあります。“わかって欲しい”と思うのは人の常です。硬く閉ざした心がほぐれ始めると少しずつ言葉が出てきます。生きねばならなかった過去の時間や心の内を語ってくれます。思いの丈を語れた子は、時に輝く程の品性を滲ませることさえあります。“命が輝いている”と思います。僅かな面接時間の中でも子ども達は、大きな変化見せることがあります。
審判は、裁きの場でなく、再生の場
再び被害者を出さない為に、“やったことに対する心の痛みを取り戻して欲しい”強くそう思います。その為にも、子どもが語れる心の情況を審判まで維持したいと思います。思いを言葉にするのは大人でさえ難しいことです。「立場上こんなことを言ってはいけないのではないか、きちんとした言葉で言わなくては等と考えず、裁判官に聞いて欲しいことを自分の言葉で話しなさい」と何度も念を押します。私は必ず審判の立ち会いを裁判官にお願いしています。面接で見せた変化の続きを審判でも見ておきたいと思うからです。審判での緊張が少しでも和らぐように「先日会った親しいおばさん」のつもりで審判廷に入ります。子どものボソッと語る一言を、一瞬見せた表情をこぼさない様に感じていたいと思います。子どもが見失いかけている自分自身を探していくプロセスに立ち会いながら、“審判は裁きの場ではなく再生の場なのだ”という思いを強くします。面接から審判への時間の流れは、これから始まる子どもとの暮らしの大きな手がかりになるのです。私はうちの子の公判に証人として何度も出廷しました。年齢は成人であっても未熟なうちの子どものことを考えると“公判は法曹関係者が主役だ”という不満感が残ることが殆どです。子どもが感じている負い目や罪悪感は別として、審判の主役は子どもです。人間関係に躓き不信感ばかりを募らせてきた子どもが、どれだけ思いを語れるか大人が問われます。思いの丈を語れた子は、裁判官の言葉を受け入れます。子ども達はあの緊張の中での審判の一部始終をよく覚えています。いい審判は、裁判官をはじめとする大人の言葉が心に届いているのがよくわかります。その言葉が1年後、5年後、時間と共に熟成されていくプロセスにもしばしば立ち会います。
少年法改正はこうした審判をなくす!
法律のことはよくわかりません。それでも少年法改正問題で私が最も気にかかるのは、このような審判を期待しつづけることが出来なくなるのではないかということです。「金の卵」と言われた時代に比べると、今は大人になるテンポがかなりゆっくりです。社会もそれを容認しています。普通の子の何倍も手をかけてもらうことを必要としながら、何分の一しか手をかけてもらえなかった非行少年と呼ばれる子ども達だけに、早く大人になることを要求するのは大きな矛盾に思えます。大人自身が生きることに迷う時代に、子どもが迷わずに生きられる筈がありません。僅かばかり先を生きている私たち大人が、一瞬一瞬を正直に誠実に生きることで、これから生きねばならない子ども達の励みとなることを願っています。
(福)青少年と共に歩む会「ともしび」No.66(1999.7.15)より転載